友達の輪706号(2025年9月7日発行)
音楽教室主宰 吉田 優香(ゆうこう)さんへ
【本紙】 音楽教室を主催されているそうですね。
【吉田】(敬称略) 今から約30年前、20代後半の頃に音楽教室を始めました。地域の方々と音楽を通して交流を持てればとの願いからです。20歳の時に幸手駅前にあったピアノ教室で、ピアノ講師のアシスタントとして子供たちに教えた経験があり、「将来はピアノや音楽を教えられる仕事に繋がったらいいな」と漠然と思えました。私は引っ込み思案な子供で幼稚園に通えませんでした。心配した親が幸手白百合幼稚園の「ピアノ教室に通う」という形で、幼稚園の雰囲気を味わうことにしたのです。
【本紙】 幼少期はピアノ一色だったのですね。
ピアノがすべて
【吉田】 そうですね。ピアノは4歳から習い始め、そこが社会との唯一の接点でもありました。神宮寺で生まれ育った私は、ピアノを弾いている以外の時間は境内で一人遊びや幼稚園から帰ってくる近所の子供たちとよく走り回ったものです。上高野小へ入学してから、日常生活に目の不自由さを感じるようになりました。周りの人の顔がはっきり見えず、また黒板の字や教科書もだんだん読みずらくなったのです。そこで初めて私は他人との違いに大変戸惑いました。メガネで矯正が難しい強い近視だと小学生になってわかったのです。小5の頃、ピアノの楽譜が見えにくく、ピアノ教室を辞めざるを得なくなり、とても悲しい気持ちになりました。少しずつピアノから遠ざかり始めた私ですが、中学の時に校内合唱コンクールのピアノ伴奏を担当することになりました。楽譜が見えずらい私は、音楽の先生の弾くピアノ演奏をカセットテープに録音して、耳で音を覚える方法を考えました。音楽の先生が昼休みの時間に熱心に指導して下さり、無事伴奏曲を暗譜する事が出来て、ほっとしたと同時に音楽の先生や友人達の励ましを今でも忘れる事が出来ません。この伴奏の達成感から、また音楽の勉強を再開できるのではと希望を持ちました。高校の文化祭でクラス発表作品「ミュージカル・アルプスの少女ハイジ」を創作したことで、進路は音楽関係と考え、尚美学園短期大学の音響コースへ進学しました。しかし、視力が弱いため機械の操作などが上手に出来ず落ち込む日もありました。卒論テーマを決める時は先生方と相談をして、当時では珍しい「音楽療法」について書くことにしました。音や音楽を意図的に使い、患者さんの心の動きを読み取る心理療法です。卒業後は日本音楽療法学会に所属し、音楽療法の仕事に携わる事を目標としました。介護保険導入前でしたが高齢者施設の介護職に就き、どのような音楽療法が提示できるのか模索しながら桐朋学園大学や日本音楽学校で単位を取得し、29歳で日本音楽療法学会認定の音楽療法士の資格を取得したのです。
【本紙】 頑張られましたね。
日野原先生との出会い
【吉田】 当時の日本音楽療法学会の代表は聖路加国際病院の故日野原重明先生でした。日野原先生は芸術にも大変長けている方で、医療分野の学会だけでなく、芸術家としても活躍されていました。その日野原先生がいつも口にしていた言葉が「祈り」です。日野原先生は周りの人や患者さんに対して思いを寄せることが大切だと常に仰っていました。私が20代の頃に阪神淡路大震災や、地下鉄サリン事件という、とても悲しく痛ましい事件が起こり、自分の力では防ぎようもない事が現実に突然起きてしまう、この恐怖感、やり切れなさをまじまじと感じました。心の虚無感に襲われて大変辛かったのです。この心の空洞感をどうしたら埋めることができるのか?人はどのような心持ちで生きていけばよいのか、その問いは私の気持ちの中に重くのしかかりました。日野原先生は信仰を持つことで得られる癒しがあるという考え方をしていました。宗教的な愛や隣人愛の精神を大切にし、それを日々の行動や医療活動に反映されたのです。人間が本質的に持つ優しさや愛を信頼し、それを育むことの重要性を世に問いていかれたのだと日野原先生の活躍を懐かしく想いだします。
【本紙】 幅広くご活躍された先生でしたね。
治療しながら修行
【吉田】 私が35歳位の夏の終わりのある日、岡山の音楽大学へ出張の仕事がありました。岡山は浄土宗を開かれた法然上人の生誕の地です。その生誕地に建立された「誕生寺」にお参りしました。大きい静かな誰一人いないお堂に入り、手を合わせると、昔へタイムスリップしていく様な錯覚を感じました。未来への不安感を払拭したい一心で祈りつづけたのです。次の日幸手に帰ってきたら今まで感じたことのない身体のだるさに日々悩まされ始めました。脈拍が100以上つづき、足はもつれ体重はどんどん落ちていくのです。甲状腺の病気でした。音楽療法の仕事を減らし、それから3年間は治療を優先しなくてはなりません。私の心は自然に仏様にすがる心持ちに変わっていきました。「どうか阿弥陀様!お助け下さい。」と仏門をたたいたのです。
【本紙】 修行に入られたのですか?
【吉田】 「神宮寺」は浄土宗の寺です。私が修行した尼僧道場は総本山知恩院にありました。全国から集まった19歳から70歳までの10名の仲間との修行の日々は、泣き、笑い、喧嘩もした濃密な時間でした。仏教を学び始めて一番の喜びは、私の心の置き所が定まったことです。人とのご縁のありがたさ、心の変化、それは信仰を持つ安心さゆえに感じられる穏やかな時間の流れとなりました。人の世は「苦」であるからこそ、皆が不安・心配を抱えて生活しています。仲間と共に励まし支えあうからこそ、今日も生きていけるんだと学ぶ事が出来ました。この世に人として生を受け、両親、家族、お檀家さん、ご近所さん、学校、社会、寺、さまざまなご縁に育てていただきました。暗闇につまずきそうになった時、そっと手を差しのべて下さった方々がいらっしゃいました。ある時はお叱りを、またある時は慰めを、それらはかけがえのない財産です。私を支えて下さった皆さまに感謝し、まだまだ未熟者ですが、社会の一助となれるよう精進してまいりたいと存じます。
【本紙】 ご縁は素敵ですね。では、お友達をご紹介ください。
【吉田】 よく行かせていただいている喫茶店「此処」の平田敬さん、奈知子さんご夫妻をご紹介いたします。
【本紙】 ありがとうございました。益々のご活躍をお祈りいたします。(神宮寺さんへ取材に行った際、誰もいない本殿にてしばしお待ちいたしました。シーンとした空間に心が癒される思いを感じました。不思議な時間でした。)